この街を出る人

栗原は、引っ越し屋を呼ばずに、リュック一つで街を出ていく予定だと言った。
三十六歳、独身。コワーキングで何度か並んで仕事をした、寡黙な男だった。カイが手続き棟の前で偶然出会ったのは、ちょうど栗原が退去届にサインを終えたところだった。
「カイさん」と栗原が笑った。「お見送り、いいですか」
二人は冬の風の中、入口ゲートまで並んで歩いた。乳白色の壁が、午後の光を柔らかく返していた。
「街、合わなかったですか」とカイは聞いた。
「合わなかった、というより」と栗原は少し考えた。「最適化されなかった、という言い方のほうが正確かもしれない」
「最適化」
「俺は、恋愛しないし、結婚もしないし、子どもも望まない。それは別に、誰かに反抗してるわけじゃなくて、ただ、そういう人間です。けど、この街にいると、毎日、自分が街のKPIを下げる側の住民だっていう感覚が、薄く、ずっと続くんですよ」
カイは、栗原の横顔を見た。怒っている顔ではなかった。むしろ、長い旅の最後に、自分の居場所を一つ確認しただけ、という顔だった。
「街の人は、誰も俺に冷たくしないんです」と栗原は続けた。「冷たくされたら、まだ、戦える。でもこの街は、優しい。優しさの中で、確かに、増やす人にだけ優しい角度を持ってる。気のせいかもしれない。でも、俺の体は、その角度を毎日感じてました」
ゲートが開いた。栗原はリュックを背負い直し、それから振り向いた。
「カイさん。出生数を増やす街は、増やさない人に、ちゃんと優しくしてますか」
カイは、すぐには答えられなかった。
栗原は笑って、ゲートの外へ歩き出した。乳白色の壁の向こうに、彼の背中はあっけなく溶けていった。
その夜、カイは食堂でユイにその台詞をそのまま伝えた。ユイは、しばらく無言だった。
「設計に、足りていない章があった、ということです」と彼女はようやく言った。「次の街には、退去する人のための章を入れます」
「次の街?」
「ええ」とユイは静かに答えた。「もうすぐ、私はこの街を出ます。次の都市実験の現場へ」