子育て棟は静かすぎる

葵の腕の中で、赤ん坊が初めての声を上げていた。
三上夫妻は、同棲棟からさらに子育て棟の3LDKへ住み替えていた。家賃は独身棟の二倍弱。それでも、都内の同じ広さのマンションに比べれば、半額にも満たない。カイは出産祝いを抱えて、子育て棟のロビーへ向かった。
ロビーの空気は、独身棟とは別の街の匂いがした。バウンサー、抱っこ紐、ベビーカー、紙オムツの匂い、洗濯洗剤の匂い。誰かが弾く下手なギターと、別の誰かが弾く下手なピアノ。子どもが走り、親が叱り、別の親が笑う。
「ここ、独身棟より人口密度高いですよね」とカイが笑った。
「正解。設計の倍まで詰まってる」と翔が肩をすくめた。「申請しても、もう待機列が長くて。来期に三号棟が増設される予定」
その夜、独身棟の住民スレッドには、こんな投稿が上がっていた。
「最近、廊下で子どもの声が響くようになった。家賃が同じなのに、こちらの静寂は守られないのか」 「独身者は、この街で軽視され始めている気がする」 「結局、出生数を上げる装置として作られた街なんだから、独身は二級住民なんだよ」
カイは、そのスレッドを夜更けまでスクロールしていた。理屈では反論できる。けれど、独身棟の自分の天井から、確かに、上の階の足音が以前より増えているのも事実だった。
翌朝の食堂で、ユイは少しやつれた顔をしていた。
「子育て棟の防音設計、やり直しの議論が始まりました」と彼女は言った。「私の責任です」
「全部ユイさんが決めたわけじゃないでしょう」
「設計者は、設計の失敗を、いちばん早く名乗り出る人間でなければいけません」
カイは、味噌汁の中の豆腐を一切れ崩しながら、思った。この街は、最初の年で、ようやく「実験」から「生活」になろうとしている。実験のときは、誰も誰のことを許す必要がなかった。生活が始まると、人は人を、少しずつ許さなければいけない。