最初の同棲申請

「住み替え申請、通った」
コワーキングのスラックに、葵から短いメッセージが届いた。少し遅れて、翔が「家賃、ほぼ据え置きで1LDK」と続けた。カイは「おめでとう」と返したあと、しばらく自分の絵本のコードを見つめてから、結局その日は何も書けなかった。
夜、SNSではまた炎上していた。タカマツの動画の二次拡散から、独身棟から同棲棟への住み替え制度が「国が同棲を管理している」と批判の的になっていた。「結婚もしてないカップルに、税金で広い部屋を与えるな」と書く人がいた。「結婚しないと支援を受けられない国の方がおかしい」と書く人もいた。
カイは食堂のカフェスペースで、ユイにスマホを差し出した。
「これ、設計の意図じゃないですよね? 国が同棲を管理してるって、そんなつもりは」
「ないです」とユイはコーヒーを置いた。「私たちは、独身棟と同棲棟と子育て棟の家賃差を最小にしただけです。住み替えを申請しても、しなくても、家計は壊れない。それだけです」
「それだけ、ですか」
ユイは少し沈黙してから、「それだけ、と言える街は、それだけで奇跡だと思っています」と答えた。
カイは、自分が何に苛立っているのかが、まだうまく言葉にならなかった。三上夫妻の祝福に、なぜ自分の指先が止まったのか。ユイの理屈は正しい。けれど、正しい理屈が街の中で動いた瞬間、外側の誰かを必ず怒らせる。設計とは、そういうものなのだろうか。
「自由って、なんですか」とカイは唐突に聞いた。
ユイは少し驚いた顔をして、それから、丁寧に答えた。
「自由は、選択肢の数で測れません。選んだあとに、選ばなかった選択肢を、まだ尊重してもらえる感覚のことだと、私は思っています」
カイは、その夜、絵本のコードを久しぶりに進めた。新しいページのタイトルは、「えらばなかったほうの、ぼく」だった。