第02話
家賃4万円の都心

部屋の鍵は、最初から存在しなかった。顔認証だけでドアが開く。
十二畳のワンルームに、ベッドと机と小さな冷蔵庫が初めから備え付けられていた。窓を開けると、低い棟と棟のあいだから、新宿のビル群が遠くに見えた。家賃は管理費込みで月四万二千円。代々木で払っていた額の三分の一だった。
カイはノートPCを机に置き、しばらく何もできずに立っていた。引っ越しらしい引っ越しが終わってしまった。十五分ほどで。
「通勤、これからどうやって減らそう」と、無意識に呟いてから、はっとした。通勤はもう、ない。
腹が鳴った。スマホの中の街マップを開く。徒歩二分のところに「中央食堂」があった。住民は登録済みのIDで決済できるらしい。深呼吸を一回してから、カイは部屋を出た。
食堂は、想像の三倍広かった。カウンター席、四人席、カップル席、ワークデスク席。仕事をしながら食べている住民が半分、ぼんやりスマホを見ている住民が半分。誰も誰のことを見ていなかった。
カイは塩鮭定食を取り、空いていた窓側のカウンターに座った。隣に、銀縁の眼鏡をかけた女が一人で座っていた。手元のタブレットには、「同棲棟への住み替え動線における滞留分析」という資料が開かれていた。
カイは思わず横目で見てしまった。視線に気づいた相手が、軽く笑った。
「設計者です」と、彼女は言った。「白瀬と申します。二〇一号室の」
「えっ」とカイは固まった。彼の部屋は二〇二号室だった。
「お隣ですね」と白瀬ユイは言い、自分の味噌汁に視線を戻した。「初日にこの食堂に来る人、わりと多いですよ。設計のときに想定したとおりです」
カイは、味噌汁が冷めていく気配を感じながら、何かを言わなくてはいけないと思った。