第01話
国立競技場が消えた日

国立競技場が、本当に消えていた。
カイはスマホのマップを縮小し、もう一度開き直した。たしかにここに、巨大な銀の輪があったはずだった。今、目の前にあるのは、街区全部を覆う乳白色の壁と、そこに開いた幅五メートルのゲートだった。
「センダガヤ・ネスト 第一期入居棟」
ゲートの上の銘板を、カイは口の中でなぞった。少子化対策の切り札として、政府が作った二十〜三十五歳限定の居住区。家賃は四万円台から。職場、ジム、食堂、保育園、診療所まで全部徒歩圏。代わりに、住民以外は原則入れない。
ネットでは「人口工場」「恋愛団地」「国営マッチングアプリ」と呼ばれている街だ。
カイは三十四歳、売れないAI絵本サービスを一人で作っているエンジニアだった。月の売上は、いま住んでいる代々木のワンルームの家賃に届いていない。先月、貯金が二桁万円を切ったとき、カイは「国に恋愛まで設計されてたまるか」と呟きながら、入居申請のフォームを送信した。
ゲートの前に立つと、カメラが静かに視線を上げた。一秒もしないうちに、低い電子音とともに扉が開いた。
「森野カイ様、ようこそセンダガヤ・ネストへ」
合成音声が、夕方の風に乗って流れた。背中側で扉が閉まる音を聞きながら、カイは初めて街の奥へ目を向けた。
低層の白い棟が、かつてのトラックの形に沿って弧を描いていた。中央の広場には、競技場のフィールドだった頃の芝が、四角く切り取られて残されている。芝の上で、知らない誰かと知らない誰かが、ハイタッチをしていた。
「ここは未来都市か、巨大な寮か」
カイは小さく笑った。それから、リュックを背負い直し、初めての我が家に向かって歩き出した。