第06話
契約

調査事務所は、古い雑居ビルの三階にあった。窓から見えるのは、冬枯れのイチョウ並木だけだった。
調査員の篠田は、五十代の落ち着いた女性だった。資料を一枚ずつテーブルに並べていく。
一枚目。郊外の小さなクリニックの外観。「メモリ・ケア」と看板に書かれている。事故や病気で記憶を失った人のための、認知リハビリ専門の施設だった。
二枚目。そのクリニックの利用契約書のコピー。契約者欄には「井ノ口拓也」、対象者欄には「霜村千夏」。一年半前の日付。
「彼女の本名は霜村千夏さん。元々、別件の交通事故で記憶障害を負っていた女性です」と篠田は静かに言った。
「井ノ口さんはこの一年半、彼女の認知リハビリの全費用を負担しています。リハビリのテキスト、思い出話、写真、すべて——奥様の記録から再構成された『玲子さんの人生』を、彼女に与え続けてきた」
玲子は、自分の写真アルバムから抜き取られていた数枚の写真の存在を思い出した。
「ご主人は、彼女に治療の名目で、奥様の人生をインプットしているんです。彼女の側は、自分が本当に『玲子』だと信じている」
玲子は資料の一枚を指でなぞった。事故のあと、自分が眠っていた半年間。あの間、夫は喪失に堪えきれず、別の場所で「もう一人の妻」を作り始めていた。
そして、本物の妻が目を覚ましたあとも、それを止められなかった。