第10話
鍵

拓也が出ていったあと、玄関のドアの前に、玲子はしばらく立っていた。
ドアチェーンを丁寧に外し、鍵を閉め、内側の鍵をもう一度回す。それは、結婚を解く儀式の最後の所作のように、自分の中で静かに鳴った。
ダイニングへ戻ると、千夏がテーブルの前に座ったままだった。冷めたグラスの水を見つめている。涙はもう乾いていた。
「これから、私は霜村千夏に戻ります」と千夏が呟いた。「でも、玲子さんから借りていた記憶を、すぐに全部返すことはできません」
玲子はガスを点け、新しいやかんに水を注いだ。深夜のキッチンに、青い炎が立ち上がる。
「返さなくていい」と玲子は背中を向けたまま言った。「あの記憶は、あなたの中であなたの色に染まった時点で、もうあなたのものです。私のものでもなく、私の代わりでもない」
千夏は顔を上げた。
「玲子さんは、これからどうするんですか」
玲子は微笑んだ。鏡の中で何百回も練習した笑顔ではなく、もっと無防備な、新しい角度の笑顔だった。
「もう、誰かにとっての完璧な妻でいるのは、やめます。明日からは、ただの私で、生きていく」
やかんが鳴った。玲子は二つのカップを並べ、温かいお茶を注いだ。
同じ顔をした二人の女は、同じ夜の中で、別々の人生のはじまりを、静かに啜った。