第01話
香水

夫が眠ったあと、玲子はクローゼットの前に立った。クリーニングに出す予定の上着の襟に、鼻先を近づける。
知らない香りだった。柑橘でも、白い花でもない。粉のような、上品で冷たい甘さ。玲子が一度も買ったことのない種類の香水だ。
「拓也さん、今日もお疲れ様」と笑って迎え入れた、二時間前の自分の顔を思い出す。あのとき、玲子は確かに何も気づいていなかった。
不思議と、心臓は走らなかった。動揺の代わりにやってきたのは、静かな観察の癖だった。仕事で何百件のブランドを救ってきた、あの落ち着いた指先。
玲子は上着をハンガーに戻し、鼻先まで運んだ自分の手の甲をじっと見た。三十五歳。共働き、子供なし、結婚六年目。誰から見ても完璧な夫婦。
リビングへ戻り、夫のスマートフォンの位置情報共有アプリを開く。今夜の彼の足跡は、報告通り、駅前の居酒屋で止まっている。
それでも玲子は、寝室のドアをそっと閉めながら呟いた。
「この香り、私には絶対に似合わない」
それが、すべての始まりだった。